ともしどブログ

宛名なしのお便り

左手はエクスタシーのとりこである

さいきん、ひそかなマイブームがある。

 

右手と左手に意識を傾ける遊びにハマっている。私は右利きなので、右が利き手、左が利き手じゃない手である。そうしてわかったことがある。私は無意識のうちに使う手を決めている。

 

右手は、書く・スマホいじる・包丁で切る・おしりふきふき・などなど、器用さが求められることを無意識のうちに担っていた。左手はぜったいに行こうとしない。たまには行けよ、と思う。

 

一方、左手には、トイレ掃除・チンチンカイカイ・チンチンクイクイ・動物を撫でるくらいしか役割がない。野菜を切るときに添えるだけとか、そういうのはあるが。左手は添えるだけ、ということか。

 

左手はエクスタシーの塊なのではないかと思い始めた。汚れを落とす快感。チンチンをかく快感。チンチンをクイッとする快感。動物を撫でる快感。左手は快感を得られることに積極的すぎるからである。

 

実験として、右手と左手を入れ替えてみた。右手でやることを左手で、その逆は逆で行う。その結果、どうなったか。イライラした。とにかくイライラした。右手でチンチンをクイッとしてイライラするときの気分は最悪だ。

 

それは単に「慣れていないから」ではない。慣れで決まるなら、右手でトイレ掃除をしてイライラするのはおかしい。こぼした液体をティッシュで拭くのは右手なのに、トイレ掃除をするのは左手なのである。左手が快感にとりつかれているとしか思えないでしょう? 左手は汚物とハラハラしながらせめぎ合うのを楽しんでいるのである。

 

そういうことなら、人は快感を求めているとき、無意識のうちに左手を差し出してしまうのではないだろうか。たとえば、女が家のカギをちらちらと揺らしながら手渡そうとしたら、男がムラムラしていれば左手で、無欲ならば右手で受け取るのではないだろうか。試しにやってみてほしい。そして結果を教えて欲しい。

 

そういえばさいきん、ソフレ(添い寝フレンド)を題材にした漫画を読んだ。そのとき私は、スマホを置いて左手の中指で画面をスクロールしていた。快感を求めすぎている。


左手の中指は、手指の中で最も器用さに乏しい。快感を得られるものには不器用な手と指が反応してしまうのだ。

 

そりゃ、左を崇める言葉が多いわけだ。

 

 

 

 

前略プロフィールを懐かしんだらハラハラが止まらなかった

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妻が寝息を立てている。猫のような寝顔である。私は今、それを見て安堵している。「おい! これ! こんなことってあるか! 何の因果だ!」と妻を叩き起こさなかった自分を讃えたい。

 

というのも。不意に「前略プロフィール」の存在を思い出した。15年ほど前に流行していたサイトである。マイページを作ってサムネに画像を貼り、プロフィール文でアイデンティティを披露してはゲスブと呼ばれるBBS(掲示板)を設置する。今でいうSNSアカウントのようなものである。

 

前略プロフィールって、今もあるの?」と無邪気な興味関心に支配された私は、「ママ、抱っこ♪」と乳房ロックオン状態の男児のようなキラキラした瞳でググった。最上部に表示されたのは懐かしのURL。これだ。まだあるじゃん。しかしサイトはメンテ中のままになっている。あるけどない。ないけどある。ちょっと寂しい。

 

そして。タイトルを見て気になった記事もついでに見てみた。これがよくなかった。ページはこれである(https://www.excite.co.jp/News/net_clm/20150430/E1430214157779.html)。エキサイト教授。筆者の欄には……あれ、これ、妻のペンネームではないか。「マジかよ。これ、妻が書いた記事じゃねえか!?」大混乱。

 

妻が書いたものとして記事を読む。ひどく傷つく内容だ。たしかにそういう人はいっぱいいた。みんなの黒歴史の集合体だ。でも、なんとなく、妻にはこの記事を書いていてほしくはなかった。みじめである。

 

そこで自分を振り返った。15年前。前略プロフィールを利用していた私のことを。当時の私は、ジャスコのトイレに飾ってあるバラを拝借し、口に咥えてプリクラを撮るような男だった。クソ野郎である。ノリと勢いで看破できないものはないと考えていた頃である。無理もない。それはバラのひとつも咥えてしまうだろう。その頃の私は、前略プロフィールのヘビーユーザーと化していた。何人もの女性と前略プロフィールを通じて知り合い、会い、付き合った。気の利いたセリフをいくつかゲストブックに書き込むだけで簡単に女性の気を引けた。ものすごく簡単な出会いのツールだった。それはそれは簡単な。

 

私には何を言う資格もない。記事を書いたのが妻であっても、私のほうがゲスである。ゲスに大きいも小さいもないが、少なくとも大きいゲスが小さいゲスにとやかく言うことはできない。私は呑み込むことにした。触れるまい。私は大人だ。

 

記事の後半には「チョベリグ」の文言。はあ。やっぱり。微かな望みも打ち砕かれた。はあ。ため息を吐きながらクリックする。……あれ?なんかちがう。サイト?ん?

 

妻ではなかった。「チョベリー」さんの記事だった。ニアミスである。不埒な私には、「チョ」と「ベリー」をチョベリーとは読めなかった。うしろめたさは人を盲目的にさせるのか。ダメダメダメダメダメダメダメ。

 

黒歴史ばかりの人生である。15/29くらいは黒く塗りつぶしてしまっても問題ないくらいには。しかし今は家族がいる。塗りつぶせない人生を歩んでいる。それっぽいセリフで締めてもろもろをなかったことにする作戦である。過去くらい、塗りつぶしちゃってもいいですよね。

つらいコンプレックスは体温が苦手

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あるCMを思い出した。

 

女が「私の鼻がもう少し高かったら」「私の足がもう少し細かったら」などとコンプレックスを並べ、変わっちゃう~、願い叶っちゃう~というCMである。

 

鼻を高くするくらいなら、ちょっとのお金でなんとかできるらしい。すごい時代である。金持ちでなくても顔を変えられる。いわゆるプチ整形は、わりと軽いノリでできるようだ。新しい鼻をコンビニで衝動買いするようなものである。さすがに言いすぎか。さもありなん。

 

私にもコンプレックスがある。肉体のシルエットがダサいことである。簡単に言うとスタイルが悪い。それは太い細いの問題だけではない。長い短い、大きい小さい、それらすべてのかみ合わせが悪いのだ。ぬいぐるみや小動物ならば「キャ~ワユィ~!」ともてはやされていたかもしれないが、残念なことに私は人間なので冷遇されている。く~~~~~!!!

 

だから私はスタイルの良い女性が苦手だ。いわゆるモデル体型の女である。私はそういう女を避けてきた。「私と付き合いたまえ」とドヤ顔で恋文を突きつけられても、断ってきた。私には美しいスタイルの女性を許容できるだけの器がないことをわかっていたからである。コンプレックスに殺されてしまう。

 

無いものねだりとは、恋愛においてよく使われる言葉である。恋愛感情は、「自分にないもの」をもっている人に向きやすいらしいのだ。しかしそれは私には当てはまらない。感性が似ているだとか、ちんちくちんなスタイルをしているだとか、髪が短いだとか、私に近しいものを求めている。昔からそうだ。私にないものを持っているだなんて、つらいだけである。

 

……自ら墓穴を掘ってしまった。両脚を交差させて立つようなスタイルの良い女性が苦手なのは、自分にはない魅力的なものを持っているというジェラシーを突きつけられ続けるのがつらいからだ。そうしてコンプレックスが邪魔をして、相手と対峙できなくなるのも嫌なのだ。我ながらなんとも面倒な男である。

 

しかし、だ。私はテレビ等でスタイルの良い女性を見かけると「イイオンナダナァ」と思ってしまう。苦手だ苦手だと思いながらも、うらやましさの奴隷と化している。「そんなの関係ねぇ」と突っぱねられない。「ぶ~す、ぶ~す!」と可愛い女子に悪態をつく男児のようなものである。ハズカシ。

 

一度、スタイルの良い女性に肉体を触られて発狂しそうになったことがある。嬉しさとコンプレックスのはざまで揺れに揺れた結果、「ぷしゅ~」と音を立てて動けなくなった。覚醒した初号機のようになっては困る。食いつくしてしまっては困る。「刺激が強すぎます」と正直に言うほかなかった。そんなとき、そういう女はだいたい「ふふふ」と笑う。何が「ふふふ」だ。勝ち誇った顔をするでない!

 

つらいコンプレックスは体温が苦手である。「マジ」に弱い。妄想にはものすごく強い。だから妄想はとても楽しいのだろう。惑わされず、つらい思いもせず、ただただ思うがまま。先生! そういうことだったのですね!!

 

なんてことを思ったのは、結局、オードリーの若林正恭さんがショートの美女との真剣交際が発覚したからだ。尊敬する正恭さんがショート好きというのは喜ばしい。しかし相手のスタイルが良すぎる。CMでスタイルの良い女性と共演しすぎて麻痺してしまったのだろうか。お幸せに。